『しあわせホットケーキ』 作:百度ここ愛
『しあわせホットケーキ』
大人になれば、もっと要領良く生きられると思っていた。
大人になれば、仕事の楽しさに気づけるんだと思っていた。
大人になれば、一人の孤独はきっと何かが埋めてくれると思っていた。
大人になれば、大人になれば、と想像していたことの大半は現実にならなかった。お酒はピリピリ舌に残る感じが苦手だし、仕事は正直楽しくない。大人の皮を被った子供のままの私は、親にもなれそうにない。それに、孤独は相変わらず一番仲良い相棒だ。
変わったこと、といえば好きだったはずのことに時間を使えなくなったことだろうか。学生時代にあんなに熱中して描いていたイラストだって、今ではペンを持つことすらしていない。
疲れ切った体を引きずるように帰宅する途中、喫茶店を見つけた。昔ながらの落ち着いた雰囲気の喫茶店。店の前の棚には分厚いホットケーキの食品サンプルが置かれていて、気づけば扉を開いていた。
「いらっしゃいませ、ご注文はいかがなさいますか?」
「ホットケーキとコーヒーを、砂糖とミルクは多めに貰えますか?」
「かしこまりました」
マスターに注文すれば、頷いてカウンターに戻っていく。ホットケーキにはコーヒーが合うと誰かが言っていた。いつだったか、ココアを頼んだら「お子ちゃまだね」なんて笑われたせいか、ココアは頼めそうにない。
遠い日の記憶を思い出しているうちに、食品サンプル通りの分厚いホットケーキが運ばれてきた。ホットケーキにメイプルシロップを染み込ませれば、とろりとお皿にまで垂れていく。
いつだってふかふかのホットケーキは、お酒の代わりに私の疲れを癒してくれるマストアイテムになっていた。オレンジ色と茶色のコントラストもかわいくていい。
パンケーキ、と呼ばれている生クリームがソフトクリームみたいに盛られていて、それにフルーツを散りばめたやつも好きだけれど。
目の前にホットケーキがあるのに、想像でよだれが出た。ふんわりとナイフが沈んでいくのを眺めながら、ホットケーキを切り分ける。一切れ口に運べば、甘いシロップが舌に触れて肩の力が抜けた。
「おいしい」
小声で呟きながら、私の癒しを次々に頬張っていく。甘さを飲み干していくたびに、鬱屈とした気分が少しずつ晴れて行った。初めて入った喫茶店だったけど、静かだし、パンケーキは美味しいし、今日は当たりの日かも。仕事は疲れたけれど。
空になったお皿を眺めてから、満たされたお腹を撫でる。落ち着いた気分でお会計に席を立てば、レジの前に置かれたはちみつ色のポストカードが目に入った。パンケーキの絵に可愛らしい蜂がニコニコと微笑んだイラスト。
今の私には到底描けそうにない「幸せ」に、眩暈がしそうだった。あんなに好きで描いていたはずなのに、人の描いたイラストを見るだけで胃の奥がきゅうっと絞られる。
私には描いてる時間も、楽しむ余裕もないのに。
無意識に手に取ってしまったポストカード。イラストの横に書かれた文字は私の想像していた「大人になれば」が書いてあって喉の奥がつっかえた。
『人生は楽しい』
そう思える日の方が少ない日々ばかり過ごして来た。生きてることに疲れることだってたくさんあって、一人で泣く夜は大人になったって変わらない。気がつけば綺麗事だけのポストカードを縋るように握りしめていた。
「これも一緒にお願いできますか?」
伝票と一緒にポストカードを差し出せば、マスターは困ったような顔をする。
「そちらのポストカードは、売り物じゃないんです」
「あ、ごめんなさい、つい」
「いえ、きっとあなたに必要なものなのでしょう。持ち帰っていただければ。ただ、その代わり──」
その代わり、と言った後になかなかマスターは言葉を口にしない。痺れを切らして私の方が先に口を開いた。
「その代わり、なんですか」
「要らなくなったら、持って来てくださいませんか? ここに」
「えっ」
「困りますよね、こんなことを言われましても」
「いえ、覚えてたら……」
「それで構いません、では、良き日々を」
会計を済ませてから、マスターの言葉を脳に刻み込む。要らなくなったら、の意味が分からなかったけどきっと大切な物なのだろう。なんだか、貰うのも気が引けたけどポストカードを握りしめた手は緩みそうになかった。
***
久しぶりに訪れた喫茶店はあの日と変わらずに、静かで落ち着いた雰囲気だった。
「今日は何にされますか?」
今日は、と言う言葉にあの日、遠い昔に来ただけの私を覚えていたのかと驚いた。
「ホットケーキと、アイスココアでお願いします」
「かしこまりました」
仕事は相変わらずきついことばかりだ。なのに、少しだけできることが増えて、楽しくなってきた。後輩もできて、楽になってきたからかもしれない。
孤独に涙を濡らす夜は、いつのまにか遠くなっていた。
今は仕事が終われば、イラスト制作に没頭している。久しぶりに描こうと握ったペンはスラスラ動いたし、SNSにアップしていくうちに仲間たちも増えていった。イラストの仲間たちとのやりとりも私の人生を彩ってくれている。
要領は相変わらず悪く、みんなと同じようには生きられていない。新しい仕事はなかなか覚えられないし、人と対面で話すのは苦手だ。それに、自分自身のことを話す時は変わらずに涙が出そうになる。だけど、それでも、いいと思えるようになっていた。
「あなたはあなたのままでいい」と主張し続ける誰かたちの影響かもしれない。そういう人ばかり目につくのは、きっと私がそういう言葉を求めていたからだとわかっている。それでも、その言葉を受け取るたびに胸を撫で下ろし、私は私でいいと思えるようになっていった。
あの日と変わらずふかふかのホットケーキに、メイプルシロップをたっぷりと染み込ませる。茶色が濃くなってくるのを見ながらにやけそうな頬を押さえた。
食べようと、切り分けたところでマスターに声を掛けられた。
「覚えておられますか?」
マスターのその言葉だけで、何を伝えたいのかわかった。カバンからポストカードを取り出す。辛い時に励ましてくれたポストカードのイラストを、そっと指で撫でる。なぜだか今日の朝、これを返さないといけないと思ったのだ。
「これ、ですか?」
「お返しに来てくださったのかな、と思いまして」
「そうなのかも」
ポストカードをマスターに差し出せば、頷いて受け取ってくれる。
「ありがとうございました」
マスターは微笑むと、続けて私に質問をした。
「今は、人生、楽しいですか?」
「辛いこともありますけど、それなりに」
答えてから、このお守りが要らなくなったと言うことを実感した。人生は確かに楽しい。楽しいことばかりじゃないけれども。正直に言えば辛いのと楽しいが交互に押し寄せるような感じだ。それでも、確かに楽しいと今は答えられる。
「お返し、ありがとうございます。ホットケーキを楽しんでくださいね」
「いただきます」と呟いてから、ホットケーキを口に運ぶ。バターをたっぷり含んだ生地がほんのりしょっぱくて、メイプルシロップの甘さを際立たせている。そのままアイスココアを口に運べば、すっきりとした口の中にほんのり優しい甘さが残った。
なんだ、ココアとホットケーキも十分合うじゃないか。私は、好きだな。
当たり前か、両方とも私の大好きなものなんだもの。
一口、一口、丁寧に口に運べば、全身に甘さが広がっていく。幸せな香りに包まれながら、最後の一口をアイスココアで飲み込んだ。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて、目の前のお皿を遠ざける。スマホが揺れて、SNSの通知を知らせた。また一人、仲間が夢を叶えた報告が通知欄に表示されて、私まで喜びで飛び跳ねそうになる。
おめでとう、とだけ送ってからスマホをしまう。
「マスター、ごちそうさまでした」
「またお待ちしております」
「はい、気が向いたら」
「楽しい人生を!」
マスターの声を背中に、店から出ればうっすらと夕日に染まった空が目に入る。とても、キレイだ。
後ろから吹いた風が、髪の毛を揺らす。振り返れば、私が手にしていたポストカードに手を伸ばす男の人が目に入った。次は、あの人のところへいい風を運ぶのだろうか。
「人生は、きっと楽しくなりますよ」
あの頃の自分と重ねて、そんな言葉を口にしていた。聞こえるわけもないのに。
少しだけ恥ずかしくなって、前を向いて歩み始める。
ホットケーキもアイスココアも美味しかった。今日も、素敵な日だった。仕事で怒られはしたけれど。美味しい甘味のおかげで、きっとトータルでプラス。
小さな幸せを胸に積み重ねて、家へと向かう。私も夢を叶えた仲間のように頑張ってみよう、なんて目標を口に出しながら。
<了>
コメント