『愛しのメロンパン』 作:射谷 友里

『愛しのメロンパン』
「やだ、遅くなっちゃった」
時計を見ると夜の十時を過ぎた所だった。後はカフェの戸締りをすれば今日の業務は全て終了だ。
「窓は閉めた、と」
年季が入って飴色になった木製の窓枠をなでる。このカフェは長年、まちのパン屋として愛されて来た建物を補修して、一か月前にオープンさせたばかりだった。工務店と何度も打ち合わせをして、窓とドアだけは残すと決めたのだ。
ひやりと妙に冷たい空気が足元に流れて来て、身体がぶるりと震えた。最近、疲れが出て来たのは自覚しているが、梅雨時期の寒暖差で体調を崩すわけにはいかない。さっさと帰って身体を休めようと、ドアを開けた。
——チリンチリンチリンチリン——
「え?」
殆ど風もないのにドアベルが鳴るのは妙だ。辺りを見回していると突風が吹き込み、何かに体当たりされたように尻もちをついてしまった。
「いたたた」
視線の先、天井の水色のシーリングファンが高速回転していた。
「え? 何?」
それはシーリングファンではなく半透明の人間に見えた。それも髪の毛の長いワンピース姿の女性だ。髪の毛を振り乱し、店の中を飛び回っている。
「ゆ、幽霊、にげ——」
天井から、半透明の女性がゆらりとこちらを向いた瞬間、身体が金縛りにあったように動かなくなった。急スピードで私の目の前まで来た彼女は、勢い余って私の身体を通り抜けた。
『どこなの! 私のメロンパン!』
ドアが透けて見えるほど彼女の姿は頼りなげなのに、その必死さは見てとれた。
「うち、カフェなのでメロンパンはありません」
思わず、そう口に出していた。
金縛りは解けたものの足に力が入らず、仕方なく這ってドアへ進む。
『ちょっと待って! 私、見ての通りのただの美女だから』
彼女はバレリーナの様にくるりと回り、私の前に立ちふさがった。目を凝らすと、ワンピースだと思っていたのはパジャマだった。
「猫柄のパジャマ……。可愛いですね」
『え、そこ? いやまあ、猫は可愛いけど。実はこれ、飼い猫のプリントなの——じゃなくて、この美しい白い肌と大きな瞳がチャームポイントなんだけどな。ああ、だから待ってよ』
「この世に未練でもあるんですか? そう言えば——あなた、さっきメロンパンがどうとか言ってましたね」
『未練? 私、死んでないから!』
「え? 死んでないならゾ……」
半透明のゾンビは映画でも見たことがない。
『ふん、生霊ってやつよ』
「生霊?」
『闘病生活の中で生み出した特技っていうのかしら』
「頑張ってなれるものなんですか、その生霊ってやつは」
彼女は咳払いする素振りをして、私を見た。
『とにかく。もにわパンのメロンパンを目に焼き付けたい。その一心で少しずつ移動できる距離を延ばす努力をして来たの! 何度も本当に死にかけて……。なのに、どうして! 昔ながらの渋いパン屋が、どうしてこんなおしゃれカフェになったのよお!』
「そんな、照れます」
やっとの思いで開いた店を『おしゃれカフェ』と言ってもらえて悪い気はしない。
『……ちゃんと私の話を聞いてた?』
「聞いていましたよ。もにわパンさんのパン、どれも美味しいですよね。特にメロンパンはどの層にも人気で、表面はカリッと、中はふわっとしていて、いつ食べても飽きない美味しさです。何より優しい甘さと香りが、ほっとさせてくれます」
『真顔で語ってるところ悪いけど、食べた事あるの?』
「もちろんです。この街で愛されていると評判のパン屋さんですし、それに……」
彼女は、質問したくせに皆まで言うなとばかりに大げさに拍手をする動作をした。
『分かってるじゃない。私も子供の頃から大好きでね。どうしても手術の前に来たかったの』
「なるほど……。想いが高まって、カニ身みたいにスポーンと出て来られたと」
『誰がカニ身よ。ていうか、あなた、変わってるわね。私を見ても平気そうだし。うちの医者達だって卒倒していたほどなのに』
「うちの? このあたりなら、もしかして持田総合病院ですか?」
『そうだけど』
「祖母が以前お世話になったので……」
『あら、そうなの』
興味なそうに額をぽりぽりかいている。
「あの、私、長沼と言います。あなたは?」
確か、持田総合病院には娘がいたはずだ。元々身体が弱く、心臓の手術をする必要があると待合室の常連達がわけ知り顔で話していたのを思い出す。
『私の事はどうでも良いじゃない。それより、もにわパンはどうなったの?』
彼女が名乗らなかったので、便宜上『生霊のレイコ(仮名)』と呼ぶことにする。
「もにわパンさんなら、北口の商店街に移転されましたよ」
それを聞いたレイコは分かりやすく動揺すると、椅子やテーブルがガタガタ鳴った。ポルターガイストだ。
『遠すぎてあっち側は行けないのよお!!』
レイコの喚き声で一層激しくテーブルが動くのを見て慌てて入り口の壁に張り付く。
「スポーンと行って来たら良いのに」
『あなた、私を追い出したいだけでしょ』
「まあ、そうですね。お店が壊されても困るし、明日も朝早いので帰りたいかなって」
『この人でなし!』
「生霊の方に言われましても……」
『くうう』
レイコは悔しそうな声を上げ、うずくまった。
『私のメロンパン……』
「そんなに好きだったんですね」
『子供の時に、もにわのメロンパンを食べて手術が成功したから、ゲン担ぎっていうの?』
「ああ、なるほど」
『笑わないのね』
「笑いませんよ。私もここぞという時に食べる料理がありますし」
『この身体じゃ、食べることは叶わないけど、せめてメロンパンの匂いでも嗅げば、来月の手術も頑張れる気がしたのよ』
「——生霊って匂いとか分かるんですか」
『弱っている生霊にゴリゴリ聞いてくるわね。あなた、強心臓過ぎるでしょ』
「初めは怖かったですけど……。考えてみたらこんなこと最初で最後かなって」
レイコは化け物でも見る様な目で私を見た。
『ながのさん、あなた怖いわ』
「長沼です。生霊のあなたに言われたくないですけど……。あ、そうだ。このパンの匂い嗅ぎます?」
『あのね、どんなパンでも良いわけじゃ……。あっ! これ、もにわパンの丸パンじゃない!』
レイコは差し出した紙袋を覗き込んで叫んだ。
「よく分かりましたね。レイコさん、嗅覚すごい」
『霊魂さん? ちょっと変なあだ名つけないでよ』
「レイコさん、聴力は微妙と」
『ごちゃごちゃ言ってないで、早く嗅がせてよ!』
「……これ、私の朝食にする予定だったんですけど」
『大丈夫、匂い嗅ぐだけだから! 物理的には何にも変わんないから!』
「ええ……」
レイコがワクワクした様にシーリングファンと同化するように旋回している。

「分かりましたよ」
もにわパンからお試しで仕入れている丸パンとライ麦パンを皿に出す。
『あっ、スープもあるじゃない。ながたさんが作ったの?』
目ざとくスープが入った容器を発見して指差した。いちいち名前を訂正するのも面倒になって来た。
「そうです。一応、自信作のミネストローネです」
『自信あるんだかないんだか分からないわね。そういう時は言い切りなさいよ。はい、やり直し!』
レイコに見透かされた様で恥ずかしい。
「自信作の——ミネストローネです」
『よろしい』
「本当はパンも自分で作りたいんですけどね」
『へえ、やりなさいよ』
「レイコさんは、そんなの無理とか言わないんですね」
『はあ? 出来る身体があるんならやるべきでしょ』
レイコには酷なことを言わせてしまったのかもしれない。
「——スープとパン、温めますね。少しだけ待っていて下さい」
せっかく出すのならベストの状態にしたい。
『嬉しいけど、早めにお願い。あんまり身体から離れたら戻れなくなっちゃうから』
レンジで軽く温め、レイコの前に出す。
「お待たせしました」
『パンはもちろんだけど、スープも美味しそう! ほら、かき混ぜて中身見せてよ』
「……注文多いなあ」
それでも自然と頬がゆるんでしまった。
『何、にやにやしてるの?』
「してませんよ!」
気持ちを落ち着かせる様にスプーンでゆっくりとスープをかき混ぜた。
『うーん、ハーブの良い香りもする。あっ、英文字のマカロニだ! 可愛い! それに、懐かしいわね』
「私も気に入ってます」
小学校の野菜スープに入っていたのを懐かしく思って、かなりの時間を費やして見つけた。
「可愛いだけじゃなくて食べ応えもありますよ」
スープを再びかき混ぜると、厚切りベーコン、大きめにカットされた野菜がコロコロと転がる様に顔を出す。
『たまねぎ、にんじん、トマト……。あっ、コーン発見』
レイコは楽しげにスープを見つめている。
「——ありがとうございます」
『え?』
「お客様に喜んで貰える様に作っているつもりなんですけど、店を回すことに必死で、お客様の表情をちゃんと見れてなかったなって。レイコさん透けていて、良く分かんないですけど」
『それは悪かったわね』
「いえ。でも何となく、やっていけそうな気がしました」
『ふーん』
「すみません。興味ないですよね。パンをスープにひたして食べても美味しいですよ」
『やって見せて!』
パンをちぎってスープにひたす。
「どうぞ」
ぼやけた顔の中心に差し出すと、レイコはくすりと笑ったように見えた。
「何です?」
『ながいさん、やっぱり変わってるわ』
「名前、覚える気ないでしょう」
『だって、名前を覚えちゃったらお互いに良くないかなって』
「どういうことですか」
『私、生霊だし。執着してここに入り浸って身体に戻れなくなったら困るし』
「そういうシステムなんですか?」
『システムって!』
レイコが笑い、テーブルがガタガタ揺れてスープがこぼれた。
「もう。不用意にポルターガイストしないで下さいよ」
『ごめんごめん。でも、久しぶりに笑ったわ。五年分くらい』
「どれだけ笑ってないんですか」
つられて私も少し笑った。レイコは見えない涙を拭う素振りをしてから手を合わせた。
『ごちそうさまでした』
「……成仏出来そうですか?」
『だから死んでないってば』
レイコの下半身がスッと見えなくなった。
『あ、そろそろ戻る時間みたい』
残念そうに微笑んだ様に見えた。
「手術が終わったら、メロンパン差し入れしに行きますね」
『術後に食べられるか!』
「じゃあ、匂いだけでも」
『……やっぱりあなた変わってるわ』
「そうでしょうか」
『ふん。またね、長沼さん』
そう言い残してレイコは消えた。
「しっかりと覚えてるんじゃないの」
皿に残されたパンをスープにひたして食べる。
「うん、美味しい」
トマトの酸味とベーコンの甘味が上手く溶け合っている。
私はちゃんと頑張れている。
『あっ、そうだ』
消えたと思ったレイコが再び現れる。
「びっくりした。やめてくださいよ、心臓止まるかと思いました」
『一言、お礼をね』
「お礼?」
『目印のドア、残しておいてくれてありがとね。おかげで迷うことなく来られたわ』
「——まちの人の思い出が詰まっているとうかがったので」
『うん。じゃあ、がんばってね』
「レイコさんも」
レイコは手を振って消えた。少しは気が晴れただろうか。
「メロンパンか……」
プチシューみたいな一口サイズのメロンパンなんてどうだろう。見た目にも可愛らしく、デザート感覚で食べられる新メニューを作れないかと思いを巡らせる。
「でもだめか。手術が怖くなったから、一口メロンパンの匂いを嗅ぎたいって来たら困るもんね」
チリリンとドアベルが鳴り、思わず身構えたが、目の前の通りを運送トラックが走り抜けただけだった。

<了>
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